エスペランサ便り

洋画、横浜、ピアノ等について書こうと思います。クイーンの来日が楽しみです。

ネットがない時代の十代の英語の勉強方法

来年のクイーンのコンサートのチケットが取れた事をきっかけに、ブログを始めようと思いました。先日プロバイダーの解約をした時に、プロバイダー上に作った海外旅行のホームページも消失させてしまったため、勿体ない事をしたなと思いました。ハミルトン島マルタ共和国等に旅行をすることは、正社員で共働きをしていたからできたことでした。

子供の時に、おばあさんになっても語学に親しみ、ピアノを演奏したいと思いましたが、現実的にボケ防止のためにも、この二つの事は続けていきたいと思います。

高校2年の夏休みに、外国語学部に行きたいと思いました。文法重視の学校の授業以外の方法で英語と親しむ方法を持っていました。英語は小学4年から高校3年まで隣人のおばさんに習っていました。当時とは物価が違うとは言え、今1か月数千円で英語を教わる事は不可能なので、ラッキーだったと思います。

小学5年の夏休みに、中耳炎になり楽しみにしていたプールに行かれなくなりました。辛い気持ちの慰めになったのは、NHKで放送をしていたセサミストリート。字幕もない放送でしたが、何を話しているのか知りたかったので、テキストを購入し番組を見ました。また月刊SNOOPYと言う雑誌が発売されたのも、小学生の頃。辞書を引きながらピーナッツコミックを読みました。

中学生になると文化放送の百万人の英語を聞くようになりました。毎晩違った英語の先生が洋楽、映画の英語等面白い題材の英語を紹介してくれる番組です。中学2年から高校2年にかけては、毎晩のように夜11時から始まる百万人の英語を聞きました。

中学2年の頃から、テレビよりもラジオを聞く事を好むようになりました。FENと言う米軍の放送局のアメリカントップ40はお気に入りの番組でした。トップ40の曲のタイトルをノートに書きとったものでした。ビートルズは既に解散をしていましたが、ポップス入門としてビートルズの人気はあり、FMのエアチェックビートルズを全曲録音しました。ビートルズの歌詞は、中学生にもわかりやすかったです。クイーンが炎のロックンロールでデビューし、キラークイーンは大ヒットしました。レッドツェッペリンやディープパープル、ジェフベック、クラプトン、シカゴ、カーペンターズなども聞きました。

当時は海外の短波放送を聞いて、受信報告を郵送する事も行っていました。ラジオオーストラリアやBBCの日本語放送をよく聞いていました。モスクワ放送で投稿した手紙が読まれたときは、興奮して友達に電話をしました。

中学生の時は、従妹がイギリスとアメリカで暮らしていたので、イギリスとアメリカに同じ位の年齢の女の子の文通相手を紹介してもらいました。外国人の女の子に手紙をかくのは、わくわくすることでした。

高校に入ると夏休みの宿題として英語の本を読むことが出たので、英語の本を読むようになりました。サリンジャーヘミングウェイなどです。私が通っていたのは進学校ではない公立高校でした。(今では進学校として紹介されているようですが。)研究社の高校英語研究と言う月刊誌も購読しました。英和辞典の他に英英辞典も使うようにしました。英語の勉強方法としては、大阪万博で通訳をしていた鳥飼久美子さんのエッセイが役立ちました。

高校の修学旅行で、京都に出かけた時、外国人の旅行者に話しかけられました。今まで英語を話す機会はなかったのですが、百万人の英語などのラジオ番組で毎日のように英語に接していたため、英会話を習わなくても、外国人と会話をすることができたのは楽しかったです。修学旅行のある高校2年の秋からは、周囲も大学入試を意識した受験勉強を開始しているようでした。今の高校生は、ターゲット1900を使っているようですが当時は、試験に出る英単語がベストセラーでした。

高校3年になる前に出る単を終了し高校3年になってからは、電話帳のような大学入試を集めた問題集を面白半分に解きました。志望校の外国語学部は、英語の問題の量が多かったので、多読に慣れるようにしました。英字新聞には手が届かなかったのですが、スチューデントタイムズは読みました。

歩いて通える公立高校に通っていましたが、塾には通わなかったです。家にエアコンがないと言う理由で、夏休みには代々木ゼミナールに通いました。高校3年になってから模擬試験は頻繁に受けました。志望校の合格可能率が、最終的には90%になりました。高校の先生が、予備校の模試の結果を知っているのは、不思議でした。先生に模試を受験していると話したことはなかったからです。

大学入試が始まってから、体調を崩し熱が出て吐きました。そのため第一志望の大学に合格をした時は、涙が出そうなくらいうれしかったです。